みしがん・でいず

「ぼへみあん・ぐらふぃてぃ」http://gogo.chips.jp/ USA編。

のんびりゆったり子育てとシンプルライフを求めて、家族で南国サモアに移住。その後さらに米国に。日本を脱出してから、かれこれ19年が経ち子どもたちは成人してしまいました。米国・ミシガン州より発信していますジャズ好き、アラフィフ。
建築家への道を探しに
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     私たちが住んでいるところから、200kmほど離れたところにある、アナーバー(Ann Arbor)のミシガン大学に行って来た。ミシガン大学は、州立大学としては、全米でも最も高い評価を得ている大学のひとつ。大学の評価はともかくとして、なぜそこに行ったかと言うと……、

     我が家の次男は、ハイスクール時代に、設計のクラスを選択科目として勉強して以来、将来はできれば建築家になりたいという夢を持っている。今自宅から通っている地元の大学も総合大学ではあるものの、建築学科はないので、近い将来、建築が勉強できる大学に転校を考えている。アメリカでは、進路の変更や自身の都合に合わせて、途中から大学を変わることができるのがありがたい。

     ミシガンの中で建築が勉強できる大学は、そうはない。4人の子どもたちの中でも次男は、自分がすべきことをポンポンと片付けていきたいタイプで、かねてから自身の夢に向かって情報収集をしていた。入学の難易度は高いものの、ミシガン大学には目指す建築コースがあるので、情報を仕入れるため、学部アドバイザーに面会を申し込んでいたのだ。1人で出すには遠いので、私たち夫婦もいっしょに行って来た。

     アドバイザーと挨拶を交わすと、「是非ご両親もいっしょに話を聞いて下さい」と、息子といっしょに、部屋に招かれた。息子はあらかじめ準備してきた、今の大学で取得している単位の記録を手渡し、編入するために、どの単位がそのまま認められるか、今の大学であと、どんな単位を取得すると、入後に無駄がないかなどを尋ねた。

     建築家への道に必要な情報をいろいろと聞いてみたところ、建築家として一人前になるには、どのみち、大学院で修士号を取得し、3年は社会に出て実地経験を積み、州認定の試験を受けなければならないことがわかった。

     つまり、4年生大学でただ建築を勉強しても、建築家として一人前にはなれないらしい。大学院で修士号を取得するまでを考慮して将来設計をしなければならないようだ。話を総合してみると、オプションは2つ。4年生大学のうちから、ミシガン大学の建築科に編入し、さらに大学院に進む方法と、4年生大学は、将来建築に活かせる勉強をしながら今の大学を卒業し、大学院から改めてミシガン大学に進学する方法だ。どちらにもメリット、デメリットがあるようだが、大学院からの方が、断然奨学金のチャンスは大きいとのこと。

     一通り、ありがたい情報を仕入れたところで、建築学科の校舎内も親切にアドバイザーが案内して下さった。金曜の午後だというのに、たくさん学生が残って勉強していた。聞くところによると、この学部はとても忙しいので、中には校舎内に“住んでいる”ような状態の学生も多いそうだ。遊ぶ時間どころか、バイトとの両立はたぶん難しいとアドバイザーは言う。“住んでいる”学生のために「シャワー室まであるのよ」と笑った。
    生徒たち1人ずつに与えられたワークスペース
    学生たちが1人ずつに与えられているワークデスク

     講義用の教室はともかく、校舎内の設備は、大学というよりはまるでどこかの工場のような雰囲気で、ありとあらゆる機械や設備が、オープンスペースにところ狭しと並んでいる。学内の設備を見て回るうちに、息子よりも、Mikiがここで勉強したくなってしまったと真剣に言い出す始末。
    校舎内にはありとあらゆる機械が備えられている
    勉強するところというよりは、どこかの工場内みたい 

    学生たちのオリジナル作品だという休憩スペース
    ボタンひとつもプラスティックから型抜きをして作ったオリジナルだという、学生が作った校舎内の休憩用空間

     アドバイザーに面会し、来学期からの選択科目にも影響するような、役に立つ情報をたくさん得た。そしてふだん私が目にしている大学生活とは、一風変わった光景を見ることができ、なかなか、興味深い社会見学となった。

     「なりたい自分」があるのはとても素敵なことだと思う。そして、それに向かって努力するのも良いことだ。まだまだ若い子どもたちは、これからもコロコロと進路は変えるだろうけど、親の夢を子に託すつもりはない。子どもの夢を応援する親でいられたらと思う。

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    | yahoi | 教育 | 12:54 | comments(2) | trackbacks(0) | - | -
    ダイバーシティとは?
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       日本ではあまり耳にしたことがなかったけれど、ここに来て頻繁に聞く言葉に「ダイバーシティ」“Diversity”という言葉がある。辞書によると、“相違点”とか“多様性”という意味だという。

       すぐ下で「人種のルツボの大陸国アメリカ」なんて書いてしまったけど、そもそも坩堝(るつぽ)“melting pot”というのは溶け合い混ざることを言うらしい。白人、黒人に始まり、性、国籍、年齢、宗教、とあらゆる違いから差別を生んでいる現状のある米国で、溶け合い混ざるということは、マジョリティに対して、マイノリティが我慢したり、犠牲になっているということも少なくない。そうした見地から、最近では混ざるために排他したり差別しないという発想や教育が進み、お互いの多様性を認め合いながら、それぞれが自立していこうという意味でダイバーシティという言葉が、よく使われるようになったようだ。

       子どもたちが通う大学でも、よくこの言葉を耳にする。人種問題や各種差別のある国だからこその発想かとは思いつつ、今ひとつピンと来ていなかったのだが、先日、ダイバーシティを応援しているという話の中で、ゲイやホモ、レズなどもサボートしているということを聞いた。

      「へぇ〜」と思いながら、さらに聞くと、そういった生徒への偏見を無くすだけでなく、大学では、教授陣としてもそのような方たちを堂々と雇用しているどころか、同性愛カップルでも、普通の夫婦同様に一般的な社会保障を与えているというので、それには少々驚いた。(もちろん、全米でそうではなく、ここではの話デス)

       公立の日本の大学で、職員が男性同士で結婚していることを公にした場合、偏見で見られることはないだろうか?それより、首にならないだろうか?そしてそのカップルに対して、大学は健康保険をはじめ各種の家族保障をきちんと与えるだろうか?と考えたら、驚かずにはいられなかった。

       個人的な意見としては、私自身はそのような趣味はないけれど、そういう人たちの存在を貶めたり、排他したりするつもりもないので、それぞれを認め合うという意味で、ダイバーシティーの発想は、良いことだと思う。こんな環境の中で育つ、うちの子どもたちはこれからどんな価値観を身につけていくのだろう?

       時おり、家庭の中でも人種や差別問題に触れると、姉兄弟でかなり白熱した議論になることがあるが、それぞれ、微妙に意見が違っている。母親としては、興味深く聞き耳を立てているが、どんな意見にしろ、それを意識して考えることは良いことにちがいないと思っている。


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      | yahoi | 教育 | 01:15 | comments(7) | trackbacks(0) | - | -
      枠にはめない教育@USA その4
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         その1で、私たちが考える理想の環境を求めて「日本を後にした」と書いた。だからと言って、日本が良いとか悪いとか、サモアや米国が良いとか悪いとか言うつもりはもうとうない。それこそ“ちがい”にほかならない。

         日本とサモアを比べると、どちらも単一民族の島国だからか、いろんな意味で共通点が多かった。何かを頼まれれば、相手を思って本心とは裏腹にノーと言わないところ、古い伝統や風習を頑なに重んじるところなどは、日本の田舎社会によく似ていると感じた。年長者を敬う姿勢や、ものごとに対する概ねの価値観など、日本人の私にとって、サモア人はある意味でわかりやすかった。

         ところが、人種のルツボの大陸国アメリカでは、理解不能なことが多い。あらゆる人種があらゆる価値観で、それぞれに生きている。ここでは、ひとつの価値観に基づき統制を計るなんてほとんど不可能だ。みんなで違いを受け入れて、はじめて物事がスムーズに行く。そんな背景もあり枠にはめない環境が自然と築かれているのだと思う。

         学校に子どもたちをあずけてきて、最初に感心したことは、学校側が徹底して各家庭の“大切にすること”を理解するようつとめ、保護者の意向を尊重してくれることだった。

         たとえば、学校行事ひとつとっても、参加するしないの選択は保護者側にある。それまで、遠足もキャンプも運動会も学校行事なんてものに、参加、不参加の選択の余地があるとは、思ってもみなかった私は正直驚いた。子どもが本を一冊読むのにも、学校側から、「○○の本を読ませてもよいでしょうか?」とお伺いが来て、それに保護者がサインをしない限りは、子どもは学校で本を読んではいけない。つまり、アメリカでは親の許可なく学校の方針で勝手な本を子どもに読ませることはしないのだ。

         なぜなら、いろんな価値観、いろんな宗教の、“ちがう”人たちが集まるこの社会では、正しさは人それぞれちがうし、管理もできなければ、まとめることは不可能に近い。できるのはそれぞれを尊重することなのだ。ここに来たばかりの頃、トルコ人のお母さんとキャンプの話をした。その母親は、「子どもがキャンプの間に口にする食べ物が気になるから、参加させない」という。理由を聞いて、?が飛び交ったが、その家庭はイスラム教徒だった。信じる宗教によっても、食べ物に制約がある。ここで、やっとアメリカの学校がなぜこれほど、保護者の意向を尊重してくれるのか、はじめて納得した。

         これでは、特定の枠に収めようにも収まるわけもないし、そうする必要もない。学校教育の場において個々の家庭の意向がおおいに尊重されるのには、こんな背景もあるのだろう。結局、「ちがいを認める」「枠にはめない」という我が家の大切にしたいことは、自然とそこにあった。


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        | yahoi | 教育 | 00:55 | comments(3) | trackbacks(0) | - | -
        枠にはめない教育@USA その3
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           「学校と学校の間の壁を取っ払ったように縦の連携が取れている」例として、自分のレベルにあった授業を学校を超えて受講できる話をした。それもたいせつだけど、学ぶことは、水準という意味でのレベルさえ合っていれば良いというものでもない。たとえば、大人でも子どもから何かを学ぶことはあるし、先生が生徒から学ぶことだってあるかもしれない。そんな見地による試みも学校と学校の壁を超えて実践されている。

           ハイスクール時代、長男も次男も選択科目としてスペイン語を3年間学んだ。3年目の授業のカリキュラムには、スペイン語を小学校の低学年に教えに行くという“勉強”があった。決められた曜日にハイスクールを抜け出して近所の小学校に向かい、低学年の子どもたちを前に、にわかスペイン語の先生をするというのが、スペイン語の上級クラスの授業の一環だったのだ。

           長男の場合は、言葉を学問として教えるだけではつまらないと言い、ギターをかついで行っては、スペイン語で歌まで歌っていたというから、内容の柔軟さがうかがえる。授業の一環のわりには、「このようなやり方でしなさい」という徹底した枠がなく、良いと思う方法を自分で考えてそれをトライしてみなさいという感じなのだ。毎回、楽しそうに小学校に出かける息子の姿に、「どんなふうに、スペイン語を教えるのか見にいってもいい?」と聞いてみたが、苦笑いしながら、「いくらなんでもそれはやめて!」とお断わりされた。考えてみれば、いくら“にわか”でも、小学生から見れば息子は教える側の人なのだから、“先生のママ”が“先生”の様子を見にくるなんてカッコ悪過ぎというのも頷ける。

           ハイスクールの生徒は小学生にスペイン語を教えることから何かを学び、小学生は、ハイスクールのお兄さん、お姉さんから、スペイン語を学ぶ。こんな合理的な試みを実践できる学校の壁を超えた連携にひたすら感心した。そして勉強と同時に人を育てているように思えた。

           こうした教育を受けてきた息子たちは、たまたま第二外国語(うちの息子たちにとっては3番目の言語だけど)として選んだスペイン語が、好きな科目のひとつとなり、大学に入ってからもスペイン語の勉強を続け、トライリンガルを目指している。ハイスクールで、すでに3年間スペイン語を勉強した息子たちの場合、大学に入ってからの初級クラスは免除と認定された。つまり、本来ならば、単位をもらうために受けなければならない授業を受けなくても単位取得済みの扱いになり、授業料の節約にもなった。

           私は教育者ではないので、難しいことはわからない。でも、子どもたちには、いろんなことにチャレンジして、いろんな興味を伸ばし、そこから好きなこと、嫌いなことを見つけてほしいと思う。それを探すために、勉強も遊びも趣味を持つことも大切だと思う。そして、世の中にはいろんな人がいること、いろんな価値観があることを理解して、それぞれの違いを尊重できる心を育んでほしいと思っている。そう考える母の目から見ると、型枠にはめない授業も、個々の能力を尊重する学校の姿勢も、一貫した学校同士の連携にもこっそり拍手をおくっている。

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          | yahoi | 教育 | 06:50 | comments(2) | trackbacks(0) | - | -
          枠にはめない教育@USA その2
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             子どもたちの相違を認めれば、勉強の進み具合もちがって当然と考えるここでは、飛び級を認めている。うちの末息子は、小学校の5年生の時に受けたミシガン州認定のテストで算数の成績が少しばかり良かった。すかさず、学校側は、他に成績の良かった数人とともに、6年生になったら、算数の授業だけは、中学に受けに行くようにと勧めてくれた。もちろん、これにイエスと答えるもノーと答えるも自由だ。うちの場合、息子は「中学で小学生が勉強していいなんて、カッコイイ!」という理由で、イエスを選択。小学校より少し遠い中学まで毎日送るという日課が母親の私に加わったが、数学(算数)の授業後、小学校に戻すのには、ちゃんとスクールバスで送り届けてくれるという気の配りようだった。

             小学校に限らず、中学校のデキル生徒は、ワンランク上のクラスを受講しにハイスクールに行くし、ハイスクールの生徒でデキル生徒は、ハイスクールの授業の代わりにカレッジクラスを受講することが認められている。そしてその単位はハイスクールにも、大学にも履修単位として認定される。この逆もありで、「うちの子どもはどうもデキが悪いので、もう1度○年生をやり直しさせたい」というのにも学校は寛容に対応してくれる。

             ハイスクールにいる生徒の中には、授業のほとんどを大学で受けているなんて子もいる。もちろんこれは、全米のどこでもそうだというわけではないと思う。たまたま、当地が大学町であることも幸いし、ロケーション的にも、地域の公立学校と大学がほど良く隣接しているため、連携も図りやすいのだろう。また、大学が町の中心にあるおかげで、教育に対する住民の意識レペルも比較的高い。そうした地域の意識も良い教育環境を整えることに一役買っていることだろう。

             アメリカの教育システムは義務教育の期間や制度にいたるまで州によって違い、州で定められた教育事項に基づき、カウンティー(郡)が方針を決め、その下で各学校区がさらに詳しい内容を決めるというのが一般的だ。

             このため、地域の教育委員会と学校、校長の采配で、かなり融通のきく教育環境を築くことができる。住民の教育に対する意識が高ければ、即座にその意思も反映されやすいということになる。代わりに、その逆もあるので、教育現場の格差は日本より大きいのかもしれない。が、ともかく、この地で、小学校から中学、高校、大学と見わたしてきた母親の目から見て、小学校から大学まで、学校と学校の間にある壁を取っ払ったように、縦の連携が取れていることには感心する。

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            | yahoi | 教育 | 03:24 | comments(2) | trackbacks(0) | - | -
            枠にはめない教育@USA その1
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               10年前、理想的な環境で子どもを育てたいという意思をもって日本を出た。もちろん、“理想的な環境”というのは、ひとそれぞれちがうだろう。私たち夫婦のそれは、未来ある子どもたちに枠を与えず、のびのびと育ってほしいという、単純な願いだった。

               当時、住んでいた地元の中学は、丸刈り強制こそ解けた後だったが、指定のジャージでの通学、規定の自転車に指定のカバンと、あらゆる行動が指定ずくめの管理教育に映った。毎日の朝連と休日おかまいなしの部活に、強制参加はあたりまえ。「参加しない」いう選択は認められていなかった。「子どもが中学にあがると、家庭での自由時間なんてないわよ」というのが、周知の事実という現実があった。

               まわりの中学生たちは、素朴で素直で良い子ばかりだったが、みんなジャージを着て自転車に乗り、すれ違うたびに、判で押したように同じ挨拶をして通り過ぎた。その様子を目の当たりにして、あまりにみんな同じって、気持ち悪いと思った。第一、会った瞬間にだれもが抑揚もトーンも同じ「さようなら〜」って変だ。今、会ったのだから、「こんにちは」という子がいても良さそうなものなのに、「さようなら〜」なのだ。挨拶というよりそう教え込まれたセリフだったのかもしれない。挨拶ができるのは、すばらしいことだけど、する子もしない子もいていいし、使う言葉もそれぞれでよいではないか。

               個々の相違を認めようとせず、子どもたちをがんじがらめの枠に閉じ込めようとする教育環境に感じられた。もろろん、それが悪いこととは思わない。それを支持する人たちもいて当然だし、良い面もあるだろう。ただ、私たちの理想とはちがっていたため、ちがう理想に我が子をあずけ、朱に交わり赤くしてしまうことを恐れた。

               結局、日本を出てサモアにいる間は、学校の規則にしばられることのない時間を得た。もちろんサモアの学校でもそれなりの制服も規則もあったが、お昼ちょっと過ぎには帰宅してしまうので、学校生活で拘束される時間と家庭で過ごす時間のバランスは取れていた。

               前置きがとても長くなってしまったけど、そんな経緯がある我が家にとって、子どもたちを枠にはめないということは、大事にしていることのひとつなのだ。この視点からいうと、常に違いを認める、アメリカの教育現場には葛藤は少なく、感心することも多い。

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              | yahoi | 教育 | 03:10 | comments(2) | trackbacks(0) | - | -
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