子どものころは、確かにクリスマスって楽しかった。それは否定しない。そしてどんな子どもたちも、わくわくするクリスマスが過ごせるといいなと思っている。
私はクリスチャンではない。ほとんどの日本人がそうなように、宗教とは関係なくクリスマスを楽しんできた。
日本、サモア、アメリカと移動してきて、サモアでは真夏のクリスマスを楽しんだし、国じゅうクリスチャンと言っても過言ではない小さな国だったのでクリスマスを無視することなどできるはずなかったし、その必要もなかった。
これは8年ほど前のクリスマスのころ。
息子といっしょに飾ったものだ。
でももうここ何年かは、私は家にクリスマスツリーも飾らないし、キラキラ電飾を飾ることもやめた。米国内では、数年前からボリティカル・コレクトネスとやらで、公立の学校などでは、クリスマスソングを歌うこともなくなり、マスコミをはじめ、ちまたでも、クリスチャンでない人に配慮が必要とのことから、メリー・クリスマスという言葉が、ハッピー・ホリディーに変わった。最近はクリスマス・カードさえ減ってきた。
否応なくクリスマス=クリスチャニティの祝い事というイメージが強くなってきて、私のように、なんの信仰心も持たない者が、クリスマスを祝ってみたり、飾って見ることに違和感を覚えるようになってきた。何より、本当に信仰心のある人々に対して、失礼な気もする。ましてや、行動だけみれば、クリスチャンに見えてしまいはしないか?と気になったり。
4月8日にお釈迦様の誕生日を花祭りで祝っているイスラム教徒なんてたぶんいないだろう。
クリスマス商戦とやらの商業主義に乗せらることもバカバカしくなってきた。
もちろん、小さな子どもがいるうちは、子どもたちに季節を感じるイベントを与え、楽しい家族の時間を持つという意味で、クリスマスは良い機会であり大きな役割があると思うが。
アメリカに来たばかりのころは、冬の風物詩として、眩しいほどのクリスマス・イルミネーションに、単純に感動できた。うっとりモードで、子どもを連れて、各家々のクリスマスデコレーションを見てまわったりもした。在米生活も長くなって来て、最近はうっとり〜というよりは、「いい加減にせーよ!」という気もわいている。
なにしろ、新興住宅街の「電飾競争」はキレイを通り越しているし、“エコ”の観点からすると、クレイジーともエゴとも言える。物事には、何ごとにも、さじ加減が必要と思うが、庭をどこかのテーマパーク並にキャピキャピにして喜んでいるおうちを見ると、こっそり、「アホか」と呟いてしまう。私も年くっちゃったのかなぁ……。
普通の家です。キレイなので多くの人が見物に来るのはいいけど、
電気代がかかるので寄付をというボックスが置いてある。
「美しいデコレーションを見せてくれてありがとう!」という気持ちで
お金を入れて行く人もいるようだけど、好きで飾っているのに、
電気代を他人に要求するとは何事?という意見もある。